<学術の観点から観光を深化させ地域力を創出する>

この研究は、観光に関する学術成果を多岐にわたる方々とのコラボレーションを通じて社会化し、観光行為や観光事業の深化と拡充を試みるものです。


研究対象とした明治期から続く旅館は、地域の歴史と共にあり、旅行という観光行動には欠かせない非日常を演出する芸術文化装置の一つです。またここには地域の歴史資料だけでなく、投宿した文人墨客との交流を通した芸術文化資源としてふさわしい資料も所蔵されています。しかし、民間で受け継がれてきたがゆえに所蔵目録などもない資料は、散逸、消失の危険性が高くなっています。本研究は、こうした資料に学術的な検討を加えて資源化し流通させることにより、地域の観光資源としてその関心と役割を再評価しようとするものです。本サイトは神奈川県箱根町元箱根の研究事例から、その成果の一つである「アート・プロムナード in 元箱根」を掲載しています。

元箱根と嶽影楼松坂屋の歴史

 嶽影楼松坂屋は、芦之湯にある鶴鳴館松坂屋本店主人の松坂屋萬右衛門の次男・安藤好之輔が、明治中期に元箱根芦ノ湖畔に開業した旅館です。当初は洋館で、西洋式の「松坂ホテル」として営業しました。当時の外国人宿泊客名簿からは、避暑地として箱根が注目され、多くの外国人が訪れたことが伝わってきます。
 その後、大正末期の関東大震災(1923年)、そして昭和初期の豆相地震(1930年)と相次ぐ大地震によって被災したため、より箱根神社に近い現在の場所に移り、和風の旅館として営業を再開しました。
 その頃、好之輔は箱根に別荘を所有していた三菱財閥の四代目社長・岩崎小彌太と親交があり、岩崎邸を訪れた人々が松坂屋を利用することも多くありました。
 俳誌「ホトトギス」を主宰した高浜虚子もその一人で、第二次世界大戦前は嶽影楼で句会をたびたび開き、そこで感じた風景を句に残しています。小彌太に招かれた諸橋徹次が嶽影楼に滞在し、清末の思想家・康有為の軸を発掘したのも、好之輔と小彌太との交友の賜物であったといえるでしょう。のちに嶽影楼に小彌太の別荘の一部が移築され、現在も客室として使用されています。
 また、元箱根村の運営や温泉の開発などにも尽力した好之輔は、英語に堪能だったこともありイギリス人貿易商バーニー氏とも深い友情を結びました。箱根を愛したバーニー氏の思いは、杉並木近くの石碑と嶽影楼に贈られた食器棚に残っています。
 その後、戦争の混乱を経て営業を再開したときの様子は、吉村昭の小説『光る壁画』に描かれました。遠藤周作や安部公房といった昭和を代表する作家たちのほか、政治経済界、古典芸能や現代芸術を代表する人々が嶽影楼を訪れ、雪を頂く富士山や、緑の濃い箱根の山々、涼しい風が渡る芦ノ湖を愉しみ、その思いをさまざまなかたちで作品に残しました。
 嶽影楼松坂屋旅館は、元箱根の歴史と訪れた人々の思いを伝え続けています。

昭和初期の嶽影楼松坂屋旅館・正面玄関
昭和初期の嶽影楼松坂屋旅館・正面玄関
昭和初期の客室の様子
昭和初期の客室の様子

箱根の標高/高低差

 芦ノ湖は、標高724mという高地にある、箱根火山のなかのカルデラ湖です。カルデラ湖とは、火山活動によってうまれた凹地にできた湖のこと。3000年ほど前、神山の水蒸気爆発で大涌谷付近からの土砂が仙石原に流れていた川を堰き止めたことで、湖となりました。文献資料には鎌倉時代、仁治3(1242)年に紀行文『東関紀行』のなかで「芦の海」という名で登場するのが初見といわれています。湖の周辺に芦が生い茂っていたことから「あしのうみ」と呼ばれるようになったようです。芦ノ湖の水はいまでも、年間3000mmという降水量に支えられた雨水によるもので、江戸時代に開削された箱根用水を通って裾野市方面に流れています。

参考資料:箱根の温泉公式ガイド箱根の宿えらびベスト「箱びた」サイト
Column.

旅を深める旅館という「文化装置」

(旅ジャーナリスト・のかたあきこ)
美しいものを見たとき、新しいことを知ったとき、人はそれを誰かに伝えたくなる。旅をすると、その機会が増える。普段とは違う出会いがたくさん訪れるからだ。はじめて目にする自然や街並み、食、人、アートから感じた気持ちを、写真や言葉などで表現したくなる。
元箱根の老舗・嶽影楼松坂屋の客室で、『寿山楽水』という書に出会った。歴史家・久米邦武が戦前、逗留の際に記したもので、「山と水、自然の恵みに感謝する」の意味だと私は受け取った。窓外には今も、書にある風景が広がっていて、目の前の自然と作品とが時代を超えて繫がる感動を覚えた。ほかにも高浜虚子や樋口一葉をはじめ、作品が残る。箱根の大自然に癒され、創作意欲を刺激されたのだと想像すると旅のチカラを感じる。
中伊豆・修善寺温泉の新井旅館にも多くの文化財が残る。芸術家を支援した館主のもとに、横山大観や安田靫彦といった日本画家、歌舞伎の初代中村吉右衛門、芥川龍之介などの文豪が集い、サロン的な賑わいをみせた。交流の歴史を刻んだ屋敷は建物そのものが国の登録有形文化財だ。館内のガイドツアーが毎日行われ、滞在や町歩きを一層楽しいものにしてくれる。
江戸時代創業の老舗、京都の柊家は川端康成や三島由紀夫といった文人に愛された宿である。創業時の面影を残す数寄屋造りの旧館から平成生まれの斬新な新館まで、意匠の異なる空間が素晴らしい。加えて係のもてなしも魅力的だ。ある時、客室に掛かる『間資壽』という書について訊ねたとき、「間は壽を資と読み、心静かであることは長生きの秘訣という意味です。常客だった書家が江戸時代末期に残したもの」と教えてくれた。説明を聞きながら「忙しくとも心はいつも穏やかでありたい」と思ったし、宿の文化財と旅人を繋げているのは“人”であると感じたものだ。
旅館は地域と主の個性を色濃く伝える場所だと思う。なかでも老舗旅館は、土地の歴史や文化、人の往来を後世に引き継ぐ地域一番の交流スポットである。だからこそ、その空間に身をおくことで出会えることがたくさんある。旅館を拠点に旅をはじめよう。ワクワクする時間があなたを待っている。